6歳でスケートを始め、高校卒業まで名古屋のグランプリ東海クラブに所属で山田満知子、樋口美穂子らの指導を受ける。1998-1999シーズン、全日本ノービス選手権Aクラスで優勝。自身初の国際大会となるトリグラフトロフィーノービスクラスでも優勝した。
1999-2000シーズンからジュニアクラスに上がり、ISUジュニアグランプリ (以下JGP)では初参戦ながらJGPファイナルに駒を進めた。JGPSBC杯のフリースケーティングでは6種類の3回転ジャンプに挑んだが、3回転アクセルが両足着氷となり、成功しなかった。3回転アクセルには世界ジュニア選手権半月前の練習中に回転不足ながら片足での着氷に成功し、同選手権の公式練習中に回りきって着氷した。
2000-2001シーズンはJGPで2戦続けて優勝し、全日本ジュニア選手権でも初優勝を果たす。JGPファイナルと世界ジュニア選手権でもそれぞれ上位に食い込む活躍を見せた。翌2001-2002シーズンの世界ジュニア選手権では銀メダルを獲得した。
2002-2003シーズンからISUグランプリシリーズに参戦するにあたり、ショートプログラム (SP) に3回転アクセルを、フリーには単独の3回転アクセル、3回転アクセル-2回転トウループ、3回転フリップ-3回転トウループ、3回転ルッツ-3回転ループを跳ぶ攻撃的なプログラム構成を予定して競技会に臨んだ。シーズン初戦の中部ブロック大会で3回転アクセルに成功すると、続くスケートアメリカではISU公認記録としては伊藤みどり、トーニャ・ハーディングに次いで3人目となる3回転アクセルに成功。さらに西日本選手権と全日本選手権では、3回転アクセル-2回転トウループにも成功した。冬季アジア大会と四大陸選手権ではそれぞれ3位となり、荒川静香、村主章枝とともに日本人選手で表彰台を独占した。
2003-2004シーズンは中野にとって辛いシーズンとなった。初めてISUジャッジングシステムのもとで行われたスケートアメリカでは3回転アクセルが回転不足と判定された。旧採点においては回転不足であっても大技に挑戦することで一定の評価を受けたが、ISUジャッジングシステムでは大きく減点されてしまうため、得点が伸び悩んだ。そのため、次の試合からは3回転アクセルを回避した。2003年夏からジェイソン・ダンジェンにペア転向の誘いを受け、シーズンオフには本格的な検討がなされた。2004年3月には佐藤有香の紹介でジェレミー・アレンのトライアウトを受けた、アン・パトリス・マクドノーやナオミ・ナリ・ナムといった他の候補者を押しのける形でチーム結成を依頼された。しかし、迷いながらもシングルでの競技続行を決めた。